田辺寄席30周年記念公演の御挨拶
1974年(昭和49年)、阪和線南田辺駅前「暁パン店」の3階で第1回「田辺寄席」が開かれて以来、毎月1回以上の開催を重ね、9月で30周年(367回)を迎えることになりました。このことは、ひとえに上方芸能を愛する皆様方の、物心両面にわたる変わらぬご支援ご協力の賜物と「田辺寄席」世話人会一同、心よりお礼申し上げます。そして「田辺寄席」の舞台で30年にわたって芸道に励んできた若手落語家、講談師達も、今は中堅・ベテランとして大活躍し、今後の上方芸能界を背負って行くものと多いに期待されています。こうした多くの人達に支えられて迎えた30周年記念公演を是非とも成功させ、「田辺寄席」を名実共に地域に根ざした「地域寄席」として継続発展させ《笑いの輪》を一段と大きく拡げて行きたいと念願しています。今後共、変わらぬご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。
2004年9月17日・昼・夜2回、
9月119日昼の3公演
田辺寄席30周年記念公演は多くの方の御参加、御協力で盛大に行われました。今回は田辺寄席開席と同じ1974年(昭和49年)入門とその年に生まれた落語家各3人の方も出演して頂き、「それぞれの30年を祝いあおう」と、銘うって行いました。高座に上がられる「30年組」には共に生きてきたという感慨深いものがありました。
2004年10月17日
田辺寄席30周年記念落語会(第2弾)〜文枝師匠の「船弁慶」を聞く会〜
30名の方が入場出来ないという大盛況で終了しました。(入場出来なかった方、申し訳ありませんでした)。
当日は、ABCテレビとNHKが取材に来ていました。NHKは当日〈10/17(日)〉の夕方のニュース(PM6:45〜)で放送されました。
ABCは11月8日(月)PM7:54〜から放送されました。(番組名「きらっと」)〜ナレーション・トミーズ「雅」
NHKはこの日のニュースだけでなく、「天満天神繁昌亭」の正式記念会見のニュースの時にも使われた。また、文枝師匠ご逝去のニュースでも何度も使用された。師匠の十八番「船弁慶」が田辺寄席の高座で映し出されたのを見たときは、本当にありがたいことだと思いました。
後日談(1)
文枝師匠が2005年3月12日(土)に逝去されました。天神橋筋6丁目生まれの師匠が楽しみにされていた「天満天神繁昌亭」の開席を目前のご逝去は、文枝師匠が最も悔しい思いをされていることでしょう。定席のトリをつとめる師匠の姿を見たかった。返す返すも残念だ。ご冥福をお祈りいたします。
後日談(2)
3月20日(日)神戸市東灘区魚崎南の復興住宅での「ふれ愛喫茶」。復興住宅の人々は、昨年11月、出前田辺寄席で迫力いっぱい元気いっぱいの文枝師匠の「三十石」を聞いただけに、余りの早いご逝去に一様に驚きと悲しみの言葉を語っていました。
「田辺寄席は阪神大震災以後、神戸で出前田辺寄席もやっているんですよ」とお話しすると、10月の大阪での田辺寄席に「船弁慶」で出演してくださったにもかかわらず、11月の第7回出前田辺寄席にも「被災者の前でもやりたい」と気軽に言ってくださいました。「ネタは何を?」と聞くと「三十石」と応えてくださり、復興住宅の人々とともに本当に嬉しく思ったものです。この日の「三十石」。下座との息もぴったり。皆「ええ『三十石』を聞かせてもらった」とトロトロになってしまったものです。2カ月連続で「船弁慶」「三十石」を文枝師匠に聞かせてもらった、田辺寄席メンバーは幸せ者です。
でも、この日の舞台が、田辺寄席最後の高座になるとは、悔やんでも悔やみきれません。じわじわと悲しみと空白感が充満してくるようです。
2004年11月21日
田辺寄席30周年記念落語会(第3弾)〜春団治師匠の「高尾」を聞く会〜
「当日券はありません」と最寄り駅から貼り出しましたが、多くの方が来られました。前売りだけで満員になり、今回も帰ってもらう方が多くありました。
・当日会場ロビーにて〜新潟中越地震支援の為の、橘右佐喜さん「寄席文字実演販売」を行い、売り上げ金の全額を、「新潟中越地震義援金」に寄付致しました。
多数の方の御協力有難うございました。
2004年11月28日
田辺寄席30周年記念落語会(第4弾)〈第7回出前田辺寄席〉〜文枝師匠の「三十石」を聞く会〜神戸市東灘区 魚崎郷清流プラザ
11月28日(日)早朝、大阪・阿倍野青年センターから田辺寄席の舞台の全てを大型トラックに積み込み、神戸・魚崎郷清流プラザにそのまま組み立てました。
県外避難者だった方、テント村で知り合った方、仮設住宅で交流しあった方、復興住宅、地域の人達、様々な人達が神戸での出前田辺寄席で笑いを一つにしました。
午後2時30分開演なのに、1時過ぎには会場はどんどん埋まり、団六さんは開口〇番の前に開口(ー1)番まで演って下さいました。住吉川の畔(清流プラザ)での文枝師匠の「三十石」は趣きがいっぱいでした。
団六・福矢・文太・文昇さんもみんな大熱演!超満員で溢れ切ったお客さんは興奮した面持ちで会場から出て来られました。今回「整理券」必要でしたが、地元を中心に早い内に予定数を配布してしまいました。問い合わせが相次ぎましたが、全て断る事になってしまいました。
2004年12月19日
田辺寄席30周年記念落語会(弟5弾)〜五郎師匠の「中村仲蔵」を聞く会〜
今年最多の入場者で大盛況でした。
石川県や福井県からも7名の方が来られました。仲入りには、地元の郷土野菜「田辺大根汁」を参加者に食べていただきました。
2004年は15回(神戸の出前田辺寄席も含む)の田辺寄席に2500名を超える方がl来られました。毎回の盛況は本当にありがたい事です。
2005年1月23日
田辺寄席30周年記念落語会(第6弾)〜福団治師匠の『しじみ売り』を聞く会〜
仲入りには恒例のぜんざいが振る舞われました。初席恒例の「抽選会」も盛り上がりました。
1.「んなーあほな」第2号―社団法人上方落語協会誌―5名
2.和菓子・田辺大根―5名
3.「まちかど寄席ファイル」(新風書房刊)―3名
4.田辺寄席記念手拭いセット(10周年記念、150回記念、300回記念、30周年記念)―3名
5.田辺寄席招待チケット(6回分)―3名
6.田辺寄席招待チケット(12回分)―3名
以上22名の方が当選されました。
2005年2月27日
田辺寄席30周年記念落語会(第7弾)〜春之輔師匠の『もう半分』を聞く会〜
姉様キングス(あやめ・染雀)、息ぴったりの音曲漫才は、上方落語の貴重な色物。定席復活でますます大事になってくることでしょう。春之輔師匠の「もう半分」は怖い噺でした。その分マクラで思い切り笑わせてくれました。
3月の田辺寄席30周年落語会千秋楽(第8弾)のチケットは、飛ぶように売れていました。
2005年3月27日
田辺寄席30周年記念落語会(第8弾 千秋楽)〜鶴瓶師匠の『らくだ』を聞く会」〜
チケットは2月28日(月)午後3時にて完売しました。その後も問い合わせが殺到しましたが、全てお断りしました。1ケ月間、世話人会事務局はお断りの説明におおわらわでした。当日も「本日の当日券は全くありません」のポスターを会場周辺に張り巡らせましたが、それでも当日券を求めて来場する人が多かったです(申し訳ありませんが、全て断ることになりました)。
チケットを持っている人も、いい席を求めて11時過ぎから並び出しました。開口〇番「文太の前ばなし」が始まる午後1時には、超満員。文字通り「立錐の余地もない」状態でした。
開口〇番「そ」の巻は「粗忽」でしたが、文太さんの話は先日亡くなられた「師匠・文枝」の思い出話に。何回も泣き声で詰まっては取り戻し、笑いを入れるという繰り返しで、お客さんもつられて泣いたり笑ったりめまぐるしい「開口〇番」でした。最後に文枝師匠の出囃子「廓丹前」を演奏。下座の太鼓と三味線に合わせて舞台では文太さんの笛。もう二度と文枝師匠の出囃子としては聞けないと思うと、会場のあちらこちらですすり泣きが聞こえていました。
瓶生「牛ほめ」純瓶「代書」文太「ずばり当てま賞『お』の巻」は「遠江山酒呑童子・大蛇太夫」。7ヶ月続いた田辺寄席30周年記念落語会の大トリは鶴瓶「らくだ」。
鶴瓶師匠は、今まで田辺寄席に4回出演されていますが、全てシークレット出演。今回初の案内プログラム、案内ポスターに写真つきで告知したものです。
どよめきと大きな拍手の中で登場した鶴瓶師匠。1時間に及ぶ長編落語「らくだ」を、会場と一体になって演じきりました。当日の「参加者の声」にも、絶賛の声があふれていました。
〜最後に〜
7ヶ月・8弾・10回の公演に及んだ田辺寄席30周年記念落語会もとうとう千秋楽!皆さんありがとうございました。
3月にて、田辺寄席30周年記念落語会(7ヶ月・8弾・10回の公演)は終了しました。延べにして1850人の入場でした。当日券が全くなくなり、入場をお断りする公演が何回もありました。申し訳ありませんでした。
4月24日(日)第374回公演からは、通常の田辺寄席が開催されています。どうか今後も田辺寄席をよろしくお願いいたします
(田辺寄席世話人会代表 大久保敏) 2005年4月
旭堂小南陵氏の「提訴」に思う(その2)
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◎田辺寄席の350回記念(2003・4・13)の4日前、旭堂小南陵氏が南陵門下の弟弟子六人全員を提訴した判決が05年9月30日にあった。
翌日の10月1日、マスコミ報道を見て多くの方が、私に電話等で問い合わせて来られた。一昨年の寄合酒 317(2003・5・1発行)に「小南陵氏の『提訴』に思う」という文を2ページに亘って掲載したからだ。10月の田辺寄席の当日にもお客様や芸人さんからも、同じように聞かれた。「裁判の結果がよく分からない」という事だった。私もマスコミ報道を見て唖然としていただけに、早速「判決文」の全文を入手した。
マスコミ報道では、在阪11社中1社のみが「小南陵さんの請求、一部認める」とあったが、他の10社は全て「小南陵さん勝訴」「小南陵さんへの名誉毀損認める」だった。
◎小南陵氏の「提訴」とは?
(1)上方講談協会に所属していた小南陵氏が、同会会員である弟弟子六人全員に対して平成15年3月5日付けで、六人連名で、小南陵氏が会員としてふさわしくない行為があったので、小南陵氏を同会から除名した旨が記載されている書面を上方講談協会の関係者に送付したことが名誉毀損に当たると主張して、弟弟子六人全員に対して各自慰謝料50万円を求めた事案。
(2)(イ)旭堂南鱗師が平成15年1月9日堀川戎神社の控え室において、笑福亭仁福氏その他その場に居合わせた出演者らに対し、小南陵氏が芸団協関西協議会で使い込みをし、除名されたと吹聴した。
(ロ)旭堂南海さんが、同年4月28日「東西交流講談会」会場において、神田陽之助さんに対し、同様の吹聴をした。
その為に小南陵氏の名誉が毀損されたと主張して、それぞれ損害金50万円の支払いを求めた事案。
(もう一件の「関西演芸協会」とは既に和解している)。
◎小南陵氏の「提訴」についての判決は?
(1)の六人の弟弟子への訴えについては、
…以上によれば、本件除名通知の公表は、公益を図る目的から、事実を伝えたものということができ、六人の弟弟子が本件除名通知を送付した行為が違法で、不法行為責任が発生すると評価することはできない。
そうすると、小南陵氏の請求は、その余の点について判断するまでもなくいずれも理由がないので棄却する。(判決文P18、19)
(2)(イ)南鱗師に対しては、
南鱗師は、20人弱程度の人がいる、15畳ほどの大きさの控え室内において、笑福亭仁福氏に対し、自己の認識する除名理由と異なる理由のもと、「演芸連合」79号の掲載箇所を示すなどして、小南陵氏が除名されたなどとして評価を低下させる事実を述べた。もっとも南鱗師の行為は、控え室内、しかも控え室内にいる者が各所で話をしている状況の下、これらの者が聞こうと思えば聞こえるという程度の声量でされたというようなものにすぎないし、また、直接的には笑福亭仁福氏、せいぜいNさんに対してされたにすぎないものであって、各所に廻って述べるなどことさらに吹聴したものでないこと、安易にこの種の話を申し伝えた仁福氏にも責なしとはいえないこと、その他本件に顕れた一切の事情を考慮すると、南鱗師の行為による損害額としては5万円とするのが相当である。(判決文P13、14)
(ロ)南海さんに対しては、
・南海さんの行為に不法行為が成立するとする小南陵氏の主張は採用することができない。
・南海さんに対する請求は理由がないから棄却する(判決文P13、14)
(注)被告、原告という呼び方、及び呼び捨てはやめて、氏、師、さんなどを付け加えています。Nさんについてはお名前を掲載する必要がないのでNさんとしました。
※損害額400万円だという、小南陵氏の請求に対して80分の1の5万円の支払いを認めたという判決である。
「訴訟費用」については
(1)については小南陵氏が全額(10/10)支払え。(判決文P1)
(2)(イ)南鱗師に対する訴訟費用は、小南陵氏が(9/10)支払え、南鱗師が(1/10)支払え。(判決文P1)
(ロ)南海さんに対する訴訟費用は、小南陵氏が全額(10/10)支払え。(判決文P1)という判決だった。〈一人分を10とするなら(79/80)が小南陵氏が支払う額である〉
これがマスコミが一斉に大きく報道した「小南陵氏勝訴」の実体です。まあ、俗な言い方をすれば「テストは0点だったが、テストを受けているので10点だけはゲタをはかせてあげよう」という、小南陵氏にとっては、裁判長の稀に見る「温情」判決ということでしょうか。
以上のような判決の実体にもかかわらず、「小南陵氏勝訴」というマスコミ報道は一体どうしたことでしょうか。
マスコミに対して小南陵氏側の弁護士から次のようなコメントが出された。
「旭堂南鱗が『小南陵が使い込みをした』と言いふらし、小南陵氏の名誉を毀損したことを認め、5万円の支払いを命じたことは高く評価できる。また、南鱗らの行なった除名処分の手続きが小南陵の告知及び聴聞の機会を十分に与えていないと認めたことについても評価できる。」
判決では、「仁福氏が聞いたという以外は、他には誰も聞いていないし、隣にいたNさんも聞いたと認めていない。同じ楽屋にいた人の名前さえ仁福氏は明らかにしていない」としている。それなのに判決で「言いふらし」を認めたなどと、それこそ不当な内容を「言いふらす」コメントが出されたこと等に大きく影響された報道だと思われる。
◎南陵先生の御葬儀での小南陵氏の挨拶
三代目南陵先生が88歳で亡くなられた。瓜破霊園でのお通夜・御葬儀に私も参列させて頂いた。お通夜での小南陵氏の挨拶は普通のものであった。翌日の御葬儀での小南陵氏の挨拶にはあきれ果てた。
「(1)弟子の名前も顔も分からなくなってしまった師匠でしたが、歌手の尾形大作さんと慰問に行った時は、尾形大作さんの歌を聞いて『あんた歌うまいな』といわれた。素人の方の歌を聞いた時は『下手や』と言ったのに、弟子のことは分からなくなってしまった師匠でしたが、芸の善し悪しはいつまでも分かる師匠でした。
(2)師匠は羽織をはおらない師匠でした。羽織をはおるのは遠出の時だけと言っていたので、今日はお棺の中に入れてやります…」。小南陵氏は号泣しながらの挨拶だったが、私はこの挨拶を聞いて涙は一気に引いてしまった。周りの人を見ても泣いている人はなかった。
「羽織について」は、他の門弟は御葬儀なので当然正装で羽織をはおっていたが小南陵氏だけはその挨拶通り、場違いだがあえて羽織ははおっていなかった。南陵先生の遺志を継いでいるのは自分だけだと誇示するように…
「南陵先生のご病状について」は、小南陵氏は「訴状」の中でも書いていた。私が小南陵氏の「提訴」で最も情けないことと思ったことだけに、前回の文でも書いた。「『訴外旭堂南陵は現在86歳であり、4年前から×××で入院中のため、原告が会長代行をしている』―請求の起因(3)―と南陵師匠の病状を公表している。南陵師匠は芸の世界では南左衛門さんをはじめ、多くのお弟子さんの師匠であり、父親です。その人達の思いを無視して『訴状』にて師匠のプライバシーである病状を自分の利益の為に公表するとは、ひどい事をするものだと思った。〈寄合酒 375(2005・9・8)P7参照〉参照〉。(訴状には×××に病名を書いている)。判決日直前の御葬儀である為、参列者にも提訴で主張している南陵先生の病状を知らせたかったのだろうか。旭堂南湖さんが追悼文でも書いておられるように、南陵先生は最期の時まで、師匠としての威厳を保っておられた。〈寄合酒 375(2005・9・8)P7参照〉
◎南陵先生の「追悼特集」の作成
このような小南陵氏の挨拶だけで南陵先生を送るのは余りにも淋しかった。「他の門弟の方達や親しくされていた芸人の皆さんの、『南陵先生への思い』も聞かせて頂きたかったが、それは叶わなかった。たった一人から上方講談を今日のような隆盛に導かれた大功労者のご葬儀としては、正直言って少し淋しかった。悶々とした思いの帰途、多くの方の「南陵先生への思い」を形にしておきたいと思った。(中略)到着してから一週間しかないという『無理で無茶なお願い』だったが、各界の45名の方が追悼文を送って下さった。この「追悼特集」を作成しながら、南陵先生の偉大さを改めて思い知った。また「上方講談」の良さも再認識した。ご協力して下さった方、本当にありがとうございました。この「追悼特集」が「南陵先生を語る」上で少しでも役に立てば幸いです。〈寄合酒 375(2005・9・8)P1参照〉と書かせて頂いた。
◎ 南陵先生四十九日法要の日、小南陵氏の「四代目南陵襲名」を公表
小南陵氏「提訴」の判決日(9月30日)から3日後の10月3日(月)南陵先生の四十九日法要が行なわれた。その日遺族の方を通じて、小南陵氏が「四代目南陵を襲名する」と発表された。
門弟の全てが実の父以上に慕い、亡き師匠の存在の大きさを今さらながらに感じ、茫然自失になっていた正にその時に、「四代目南陵襲名」を遺族の方にはたらきかけていたとは…。私はそのことを聞いた時、余りのことに、漫才の大木こだま・ひびきのこだま師ではないが、思わず「そんな奴はおらんやろ!!」と叫んでしまった。
下寺町のお寺での四十九日法要が終わり、上六でのお食事の席から小南陵氏は、名古屋から来られていた左南陵師を道頓堀のお店に連れていかれた。(そこには、既に笑福亭仁福氏が待っていた)。開口一番「四代目南陵襲名披露の口上の舞台に並んで欲しい」と切り出したと言う。
左南陵師も唖然としながらも「私は上方講談協会の人間なのでそれは出来ない」と言ってすぐに席を辞したという。
今は南陵先生を偲び、門弟一同、喪に服している時だ。「襲名」などという慶事は誰であっても論外だと思う。
◎小南陵氏は弟弟子全員にまず謝罪すべきではないのか
三つの提訴の内二つまで小南陵氏は完全に敗訴し、南鱗師への「提訴」も実体を見るなら勝ったなどとは到底言えないものだが、判決報道が「小南陵氏勝訴」と大きく報道されたこともあるのか、小南陵氏は控訴しなかった(できなかった?)ので、二つの裁判提訴の完全敗訴は確定した。
南鱗師は「仁福氏以外誰も聞いていないということなのに、仁福氏が聞いたというだけで5万円を支払えというのは全く納得できない。いくら訴訟費用は9/10まで小南陵氏が負担しなさいと言っても許せない。例え5千円でも5円であっても、私の名誉のためにも当然控訴します」と語っていた。
小南陵氏は二つの裁判で敗訴と確定した今、不毛な裁判を起こし、天下に「上方講談」の汚名を晒した事に対して率直に謝罪すべきではないのか。南鱗師との事もそのような態度から出発しない限り、益々つらい状況になっていくのではないか。
弟弟子全員とのこんな争いをしている状況では「四代目南陵襲名」などお笑い草だ。きちんとみんなが納得できる謝罪もせずに小南陵氏の既定路線どおり、「四代目南陵襲名」を強行するようなことがもしあれば、それは誠につらいことだが「南陵の終焉」を意味するだけだと思う。
◎小南陵氏に今、思うこと
田辺寄席が開席される直前の昭和49年7月、岩田寄席の2周年記念講演の会場で、南右(現小南陵氏)、米治(現雀三郎師)とお会いし、田辺寄席を始める相談をさせて頂いた。あれから31年。田辺寄席は何とか継続して来られたが、その継続にとって重要な役割を果たして下さった一人といつも思っているだけに、今の小南陵氏の変貌には驚くばかりだ。
先日(11月5日(土))近鉄・北田辺駅一階で、開高健文学碑除幕式が行われた。直木賞作家の難波利三さんの音頭で献杯し「オーパ」の声に合わせて除幕された。難波利三さんと共に唱和した言葉は開高健さんの有名なコピー「人間らしくやりたいな」だった。(P1〜3参照)今回の『小南陵氏の「提訴」に思う(その2)』を書く中で、常に思い浮かんだ言葉だった。
私は前の文章の中で「小南陵氏も反論があろうかと思います。提訴などでお忙しいでしょうが、いつでも掲載しますので、どうぞお送り下さい」〈寄合酒 317(2003・5・1)P1参照〉と書いた。「なにわ大賞返上の問題」で当会事務所に来られた「なにわ大賞選考委員会」のNさんに「小南陵氏は反論についてどのように考えているか知ってはりますか」とお尋ねした。Nさんは「泥仕合になるのでやめておいた方がいい、と忠告しておいた」と話されていた。その通り、その後も何の返答もなかった。だから私も、それ以上は一切書かなかった。
しかし、今回、判決文全文と共に取り寄せた裁判での小南陵氏の「陳述書」には、私や「田辺寄席」に対しての中傷が縷々述べられていた。再度、小南陵氏にお願いします。反論があればいつでも掲載しますので、私たちの知らない所で批判、中傷するようなやり方だけはおやめ下さい。(田辺寄席世話人会代表
大久保敏)
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